今日

十三時四十九分

「かっこいい」とか「かわいい」とか「楽しい」が自分にとってどういうものなのか、そういう話をするのは楽しい、自分が普段思っていたり感じたりするけれどいちいち人に言わない事を「むしろその主観的に感じた事を書きなさい」と言われるのは(少し恥ずかしいけれど)小さな子供が母親にまくし立てるかのように、「聞いて聞いて!」とばかりに、沢山出てくるそこまでは良かった

それに対してよく書けた。と、思ってしまった事がきっかけでまた馴れ馴れしい憂鬱が喉の奥から酸味の強い胃液のようにジワジワと登ってくる。その自負がその自信がいけないって何度も何度も思い知らされて来たのにまだ学習していないのかい。憂鬱と穴に入りたくなるような羞恥心、(穴に入りたくなるとは言うけれど本当に穴に入ったりしたらドン引き)貼りついたそれらはニタニタと笑った

 

十四時二十四分

憎からず思っているのだけれど、ニコニコ和気藹々とした雰囲気の中の私はうまくやれずにどうしても集団の異物。という感じがして毎回「なんでここにいるんだろう」と虚しくなるので黙ってエレベーターの到着だけを願っています。(結果的に異物)

 

十四時三十二分

私はこの顔が心底嫌いなんだなと改めて思った。それはそれの性格についての好き嫌いに付随して巻き起こった感情だから初めて会った時は思いもしなかったけれど、今は1秒でも視界に入れたくないとさえ、我ながら酷すぎる神様にでもなったのか

私に間違いなく備わっている人間としてあってはならない、あったとしても、出してはならないそれについて、頭の奥から精神的な嗚咽が聞こえた

 

十七時二十六分

さむい、寒すぎる腕に鳥肌が立つ、あととても眠い。スキニーパンツなんて履くんじゃなかった締め付けが不快になってきた、半袖は失敗だった(眠い)グレーだから汗をかいたら見えるし不快にさせてしまう、今日は失敗だ(眠い)

 

十七時五十三分

簡易的だが安くはなさそうなカメラをパチンコ屋に向けて撮影する二人、談笑しながら撮っていた、冷え切った身体に初夏の夕暮れの気温は心地いい

 

十八時十三分

一年生がツイッターでメンヘラ長文を連投していて「おっ^^」と思わず笑みがこぼれた、誰かを見ているみたいだった、私はそれを読むことはなくスクロールして飛ばした、誰かのそれも可視化された時間の中でただ流れていくんだろうな、それだけが救いでそれについてやっぱり誰も手を差し伸べる事はないと思った(本当に助けてほしい時はツイッターじゃなくて然るべきところでと思うけれど、助けてくれる所が分からない場合はどうしたらいいんだろうね、社会的な繋がりが薄いと生きていけない。)

同時にちょっと思い出すこともあった

私の場合、インターネットの河原から笹舟をいくつも流していく様な気持ちで書いていたり、書きながら自分の漠然としたものを自己満足で理解するために使っていて、前者の時はそれに全エネルギーを用いて余剰はなくなっている。なかったので過干渉には耐えられなかった、そもそも流れていく笹舟を拾い上げられたら不快。今はもっとうまく出来たとも思うけれど。それからはアカウントを分けるようにした。ただ一番いいのは、誰にも見えないところでやる事です

ツイッターにはいろいろな使い方がありますね。反応をする時は誰がどういう感情で使っているのかその都度予測しながらした方が顔の見えないコミュニケーションでうまくやれるはずだと思う

 

二十三時四十七分

◯◯◯◯◯◯、◯◯◯で◯で◯◯◯◯は◯◯◯◯◯。そういうのは◯◯だと思うし◯◯◯◯◯と思う、ただ◯◯◯◯◯◯の私はなにも言えない。

言いたい、言いたいことは沢山あるけれどそれは表に出すべきではない事ばかりでどうしようもなく日々の灰汁が溜まる、これらはその灰汁を捨てる行為に近いけれど、同時に私の人として必要な信頼やなにからなにも捨ててしまう。浮いてこない鍋の底に貼りついた灰汁は捨てられずにいる。

どうしようもないやりきれなさと親友面した憂鬱だけが斜め後ろにいる

 

一時十七分

あの拡大自殺型無差別殺人の現行犯に私自身、私を見て、私の事を少なからず知っている人も、私を見かける程度の人も。私とあの犯人について「ああ!確かに似ているね!」と思っているようで、思っているようで、そういう妄想をしているけれど、私にはアレは出来ないと思う。失うものがもう何もなくなった無敵の人になったとして、そういう事をやってやろうと思っても最初の一太刀までは出来るかもしれない、けれどそれ以降は「早く私を止めてくれ」と思っていそう

 

おわり