私が死んだら同じように悲しみそして愛していたと言ってほしい

死とずっと会わないことの境界は

私にはもうずっと曖昧な気がしている

ただどこかで生きているかもという確信だけは確かにその境界に一つ明確な線引きとしてある

 

覚えている身近な人の死は祖父の死で彼は私が物心つく前からすでに半身不随で寝たきり上手く声が出せないお爺さんでした

そんな彼を私はひどく怖がり苦手でした。

今思えば自分に非があるわけでもない理不尽な不幸に苛まれ、孫にも怯えられるとはとても悲しい事です。ひどいことをしていました

病院はとても苦手です

ひとつは過去に入院した時麻酔が残る身体の不快感と病院食、手術後のそこに今まであったものが切除された事への違和感と気持ち悪さ

ひとつはお見舞いに行くたびに衰え、痩せていく祖父の姿と母に言われて手を握った時のひやりとした骨ばった祖父の手、ひどい孫であったにも関わらず手を握ると嬉しそうにする祖父への罪悪感

お見舞いは嫌い

弱っている人を見るのはつらい、健康な自分がそこに行くのはまるで、病床を好奇心で覗きに来るような人に感じる

 

死んだ祖父

死んだ人間の顔というものをまだ見たことがなかった私は棺桶の窓を覗き込んだことを覚えている

死化粧などのおかげかも知れないがまるで眠っている様だった気がする

その頃から多分ずっと死が曖昧なんだと思う

死はただ眠りそして2度と会えなくなるだけなんだという風に

骨壷は肉体とギャップが強くてその人として、それは上手く繋がらない

私は、2度と会えないんだろうなとか、もう2度と楽しく会話したり出来ないんだろうなって別れ方をした人がほとんどの人間関係で、およそ幼馴染や親友とかそういった人間関係が構築できなかった、だから彼等が死んでいたとしても連絡が来ることもないし知ったとしても葬式から何まで済んでしまった後だろう、多分墓参りにも行かない、彼等はすでに私の中で死んでしまっているのだと思う

逆に言えばそういう風に関わった多くの人にとって私は死人だろう

彼等は今こうして私が彼等のことを思い出しているように私を思い出してくれるだろうか

どっかで生きてんだろうな、と

ふと思ったりしてくれるんだろうか

 

 

どう締めようか

いつか死んだら

わんわん泣いてくれる人が居たらいいな

 

そういえば一冊だけエッセイを持っている漫画家が亡くなったそうです。

未読なので秋になる前に読もうと思います。