間違って命を持ってしまったのだ、と思う。

 

生きる事への努力や気力なんてものは最初から持ち合わせていなかった、本当に好きなものなんてなにもない。

ただ生きてきた。

生きているから、死ぬのが怖い。

後天的に得た執着や恐怖や依存

色んなものが生きる事への楔になってしまった

 

最初から間違っていたのに

 

死ぬべき。とか、死んだ方がいい。じゃなかった、一番はじめに命を間違って選んでしまったからこんなに苦しいんだ。

最初に間違えたから普通が出来ない

普通が出来ない人間が立ち止まっても世界は止まらない

つらい!

 

なんとも単純かつ分かりやすい図式だ、そうだ、間違えたんだ、間違ったなら早々と投げ出して最初に戻りたい。

間違えの前に戻りたい。

 

それでも私は死ぬのが怖い

誰かに心から死を惜しんでもらいたい、どうやっても引き止めてもらいたい、そうやって必死に止めてくれる人の前で欲張りな私は「死」まで手にいれて終わってほしい。

 

きっと最初の私は間違えたのだ。

世界はきっと美しく自由で、死ななくて、呼吸ができて、欲しいものは手に入れて、何処へでも行って、なんでも見られて、作りたいものは作れる。

 

そういう風に思い込んでいたから間違えた。

 

苦しい、こんなに苦しいんだったら選ぶ前に教えてくれよ、死にたい

 

最初に間違えたことを続けるのはすごく難しいし苦しい

 

どうして「苦しくても生きなきゃいけないから」なんて言えるんだよ、無理だよ、わたしには

 

どうしてどうしてどうして

最初に間違ったから

 

最初に間違ったから、おとーさん、おかーさんのお金がなくっちゃ生きていけない。

自分で働くのも出来ない、苦しいことなんて、出来ない。

 

だからさぁ、間違えてるんだって、最初を間違えたんだって、そう言ってるじゃん。

 

こんな私でも最後まで引き止めて生きてほしいとどうか願って下さい。

 

犬が死んだらちゃんと死にます。

 

インターネットで検索

すれば大体の事を知られるはず、私たちは携帯端末とインターネット回線さえあればいつでもどこでも無限の扉の前に立つことができる。

でも待って、鍵は?

この鍵は不思議なもので誰でも持つことは許されていて形が不鮮明でも運が良ければ扉を開けられる

らしい

そうだったらしい、ただ私はどうにも鍵を生み出せるほど頭にストックが無かった

からっぽすっからかん

21年何も知らないどこにもいかないまま生きてこられてしまった

せっかく便利な時代なのに

これじゃあ江戸時代だ大正だ明治だ昭和だ

追え追え

捕まえろ

情報の海から釣り上げろ

食し知識として消化しやがれ

 

鍵を作りなさい

 

一人でも生きていけるように、最低最悪でも誰かに求められるように

 

バカで

一人は

ビューティフルワールドのビューティフルピーポーにはなれないのだから

私の「私」

というものが私はどういうものか知っている、

他人の「私」から気に入ったものをペタペタとコラージュ、もしくはモンタージュ(どちらも同じような意味なのかも)したものを私は「私」の正体だと知っている、だから一番好きな本は誰にも教えないしオススメもしない映画だって、果てはツイッターユーザーまでも、バレて正体を糾弾される事が恐ろしいからだ

まぁ、もちろんそんなでしゃばりは存在しないと分かってるけれど私は自意識過剰な事をよく分かっているから気にせずにはいられない

これはずっと言っている事でもある

ただ、ここまで繰り返し言うとそれは自分に言い聞かせているようにも感じてくる

あらゆる構成要素を削ぎ落としたところに現れる私が私はどんなに惨めで矮小な存在なのかは知っているのに

なかったかのように

知らなかったように

 

「もしかして削ぎ落とした先にある自我はとっても美しい宝石のような私なのかもしれない」

 

ウットリと想像する夢見がちな少女という画がありありと見えるようで苦々しい顔になってしまう。

 

そんなはずはないだろうと分かってはいるのに

自分にそんな期待をしてしまう

増長した自意識を何度でも踏み潰されてきたのに何度でも期待してしまう

 

私はかくあるべき、

雑踏に紛れる風景である事を強く自覚し

理解し

期待するべからず(自分にも他人にも)

 

そうすれば今よりずっと生きやすくなるんじゃないか、朗らかな交友が生まれるんじゃないか

 

でも私は知っているここに書いた事までもが、

一切の自我がない事を

一切の自立性を持たない事を

だから、

纏まりのない話

なにか大きな輪の中にドボンと突き落とされたような気持ちになっています。

「手前の頭の中でしか物事を考えられない奴」

という言葉を最近考えていて、それは大きな輪の中に陥る原因で何かを考えるとこの言葉がやってきてまた、自分の事を否定するしかし大きな輪は否応のない渦巻きのような渦潮のような巡る廻るそれはクグルクグルと回り私は意思を放棄するしかないように感じる、どうやらその輪を愛と呼んでいるらしく、私の感じる悲壮や憂鬱、不安や孤独は輪に取り囲まれて取り上げられる、だから私は放棄してそれが良いとされる道を歩くしかなくなる

あぇ。

いい事なんだろうなそれは

 

眠る前に祈る。明日も友人たちが笑顔で過ごせますように

素敵だ早くそれになりたい、連れて行ってくれ

だけどそんな場所に連れて行ってくれる人も引き上げてくれる人も居ない

当然だと分かっているけれど半分、ただ無償での愛はないものかと思う、無いんだけど

別に生真面目に生きているわけじゃないむしろ堕落しているし無神経。でもそういう人って私だけじゃないだろ?なんで私はそこに行けないんだって思う

最近、というか今週辺りから落ち込んでいる、気分が浮かない、外に出たくないし今まで以上に人が怖くなった、一昨日は怖くて学校をサボったけれど流石にもうダメなので昨日は学校に行った怖いので俯いていた

なんだか今まで閉じこもっていた殻が朝目覚めたらすっかり無くなっていたようなのだ

そんな事あるんだ

殻を破れとか言うけれど殻が無くなることもあるんだね

自分の殻を破れって言う人に殻がなくなっちゃったんだけど、どどうすればいい?って聞いても何も言わない

お前らいつもそうだ

事後処理も出来ない癖に私たちが気づいていればとか声をかけていればとか

いやでも

私にも救いと思われる手が何本か伸びてきた事がある

ただその手を全部払いのけた

矛盾では?

うぁ

救われたい

何も考えず愛の循環のままに突き進めばそこそこに気持ちのいい暮らしができるんじゃないんだろうか

私が考えている事は全部

手前の頭の中でしか

なのかもしれないし、多分それは考えなくていい事かもしれない

最近読んだ記事でみじめにならないためだけの友達関係しかなくてホンモノの友達が欲しいという悩みを抱えた女子高生になんとかって作家が答えるやつがあった

そこで1人のみじめさか孤独にならないための友達関係かを天秤にかけなさいと言っていた

私はもうなんでもいいから集団に属したいと思った

りした

けれど、多分私はソレに我慢する事はできないんだろうな

笑う

自分馬鹿なんじゃねぇの?

人って怖くね?

差が怖い

あー一生このままなんかなー

とか考える事が日に日にまして

色んなことがフィクションに思える、え?友達?なにそれ、現実なの?本当はみんな架空の友達のことツイッターに書いてるんじゃないの?

いろんなことの意味が薄れて生きる意味まで薄れそうだけれど

死んだりすることが出来ないのが悩みだな

でも私はずっと死んだりしないって言ってて本当にそう思われたら嫌だなって気持ちもあるんだよな

罪悪感だけだったら私でも人に与えられるんじゃないかなって思う

だって知ってる人が死んだ時、

いやなんも思わないわ、死んだんだって思うな、だって私友達全然いないし知り合いが死んでもえっ!そうなん!で数年後に話のネタにしてそう「大学の知り合いが病んで自殺してさー」って最悪

そういう風に扱われるのが一番嫌なのに自分もやってるんじゃん

病んでるって言われるのすげー嫌じゃない?しんどい人って言われるのすげー嫌じゃない?

なにそれ

誰それ

心が狭いのでイヤでーすやめてー

って

ああ本当に嫌だ

手前の性格が終わってて腹の底で平気で人を見下してる癖にまるで自分は善人優しいみたいな感情を持ってるって錯覚してそれに誰も気づかない気づいててもどうでもいいって思ってる早くそれになりたい

そういうのが気持ち悪くて

嫌で

嫌な事を嫌って言ったら誰かを傷つけて孤立して

あいあい私の心が狭くて狭くってまあ大変

嫌いなんだよ嫌なんだよ

でもきっとそれらは堪えてみんな生きてんでしょ?

仲間内で馬鹿にするのでストレス発散してんでしょ?

じゃあ堪えられなくて馬鹿にしあうほどの信頼関係にある、お互いがお互いを人質に取り合う程度の仲間も居なけりゃどうすりゃいいの

そう、どうすりゃいいのってずっと思ってる

これからどうすりゃいいの?

はー、

色んなことが疲れた

一生一人なんてありえないとは思えなくなった

リアリティをもって一生一人

これからずっとツイッターで話す人間たちや生活を見ながら早くそれになりたいと思って過ごすんだろうか

生きている意味はない

 

希望はどこに

 

なんなの

全部私が悪いの?ああはいそうだろうなとは思いますがこんな私を一度無償で愛して裏切らないと言ってください

 

まずはそこから始めましょう

(こんなこと言ってる時点でおしまいなんだろうな人生は勝手に終わる問題のある私を置いて進む)

 

 

 

私が死んだら同じように悲しみそして愛していたと言ってほしい

死とずっと会わないことの境界は

私にはもうずっと曖昧な気がしている

ただどこかで生きているかもという確信だけは確かにその境界に一つ明確な線引きとしてある

 

覚えている身近な人の死は祖父の死で彼は私が物心つく前からすでに半身不随で寝たきり上手く声が出せないお爺さんでした

そんな彼を私はひどく怖がり苦手でした。

今思えば自分に非があるわけでもない理不尽な不幸に苛まれ、孫にも怯えられるとはとても悲しい事です。ひどいことをしていました

病院はとても苦手です

ひとつは過去に入院した時麻酔が残る身体の不快感と病院食、手術後のそこに今まであったものが切除された事への違和感と気持ち悪さ

ひとつはお見舞いに行くたびに衰え、痩せていく祖父の姿と母に言われて手を握った時のひやりとした骨ばった祖父の手、ひどい孫であったにも関わらず手を握ると嬉しそうにする祖父への罪悪感

お見舞いは嫌い

弱っている人を見るのはつらい、健康な自分がそこに行くのはまるで、病床を好奇心で覗きに来るような人に感じる

 

死んだ祖父

死んだ人間の顔というものをまだ見たことがなかった私は棺桶の窓を覗き込んだことを覚えている

死化粧などのおかげかも知れないがまるで眠っている様だった気がする

その頃から多分ずっと死が曖昧なんだと思う

死はただ眠りそして2度と会えなくなるだけなんだという風に

骨壷は肉体とギャップが強くてその人として、それは上手く繋がらない

私は、2度と会えないんだろうなとか、もう2度と楽しく会話したり出来ないんだろうなって別れ方をした人がほとんどの人間関係で、およそ幼馴染や親友とかそういった人間関係が構築できなかった、だから彼等が死んでいたとしても連絡が来ることもないし知ったとしても葬式から何まで済んでしまった後だろう、多分墓参りにも行かない、彼等はすでに私の中で死んでしまっているのだと思う

逆に言えばそういう風に関わった多くの人にとって私は死人だろう

彼等は今こうして私が彼等のことを思い出しているように私を思い出してくれるだろうか

どっかで生きてんだろうな、と

ふと思ったりしてくれるんだろうか

 

 

どう締めようか

いつか死んだら

わんわん泣いてくれる人が居たらいいな

 

そういえば一冊だけエッセイを持っている漫画家が亡くなったそうです。

未読なので秋になる前に読もうと思います。

大学アカウントの全員をミュートした話

まずはじめに

私はメンヘラだし情緒不安定だしすぐに機嫌が悪くなるし人見知りでまともに人と話せないし初めての店の前では行ったり来たりして入らないまま帰ったりもする情けない人間だ

でもそれで、落ち込んだり病んだりするのは悔しいし私が人と喋れなかったり行きたかった店の目前で引き返しても他人に何も言われたくないしそういう被害妄想で弱りたくない

 

本文へ

何が面白いのか分からない人たちの呟きをなんとなく気になるとかいう惰性で見続けることに疲れた

とりあえず大学アカウントのフォロワーをTLに現れた順にミュート

よくもまぁこんなにフォロワーを増やしたものだ

友達1人できなかったけれどフォロワーだけは300人に達していて少し笑う

 

私はもう疲れた 

 

面白くない人は見続けないし見続ける必要もないのだ目隠し機能はいくらでもある

私の時間をどうして他人の面白いと思えない呟きに奪われなきゃいけないんだ!

そもそもSNSが登場するまで本来それらは知りようのない事だったわけで、知る必要なんてないんじゃないかな

あと面白くない人を見続けていると自分がますます面白くなくなる

もちろん彼らは彼らで楽しそうだし楽しいのだと思うのだけれど

外樣の私にとってそれらは中学生が作り上げた青春演劇を何かすごい展開が待っているかもという期待だけでダラダラ席に座っているようで、、

若くて動く体の時期に病んだり落ち込んだりしている間に肉体の消費期限が近づくと思うと寒気がする、嫌な場所嫌な人は拒否してもいい

こういったものから逃げられずに我慢する事が大人になるという事らしいのではと、私は思うのですが人とか沢山いるし1人くらいドロップアウトしてもバレやしない

大人になるをして病んだりするならさっさと逃げて水曜どうでしょう見てた方がずっといい、家までは追ってこないし追ってくるようなら交番へ行こう

 

本を読もうと思う

私にはユーモアが足りないので

このブログがだんだん面白くなるようにするから待ってて

 

ところで、ミュートしまくった結果更新されないTLでもまだ見に行ってしまう、まだ少し気になる

SNS離れは難しい、特に実生活と同じレイヤー上にあるアカウントは特に

また、自由に生きようと思いすぎて自由な人物像に対するイメージに縛られてかえって不自由になっている

私はとにかく生きるのが下手

でも、「無駄に」疲れる事をしないと決めた

だって楽しく生きたいし

0-7

家を燃やした後の気持ちを知っているか

伸びた爪を光に透かしてみると三日月が4つ並んだけれどどうにも気分は陰鬱なままで私は私の思想がくだらない人に侵食されていた

私は何も変わっていないし変われていないので言っていることの根は全部同じなんだ

hi-lite - menthol

美味くもない 

ハイボールレモンサワー梅酒日本酒泡盛獺祭その他名前を忘れたカクテル何種類か

酔った時自分はまだ頭が冷静だと

次の日会話を思い出せないのに

酔う人なんていないんじゃないか

お酒を飲む程度でこの私が

大胆に開放的に

別人格になれるんだろうか

酔うとただ表皮が剥がれて

だらしのない

乳とケチが臭う私が晒されるだけです

何かが変化したりすることはない

どこも嫌いで

どこでも好きになれるのだろう

ただそこに居てくれたらいい人が居るだけで

どこでもいい、重い

関係が壊れるのが嫌なのだけど

ふともう全部どうでもいいや

こいつもどうでもいい

と思って全部無かった事にしたがる

どうしても離したくない人間だけを残して

傲慢

我儘

自己チュー

ほらもう頭が侵食されている

まるで元々の私がこうであったかのように

(本当の私がこうなのかもしれない)

全員ミュートした

(果たして私になにかあるのだろうか)

インターネット

(知らない 全部)..

好きな人とだけ仲良くなれればいいのに

(好きな人は誰も好きになってはくれないよ)

快適で安心で幸せに暮らしたいだけなのに

不安は私が生み

「今度花火見に行こうね」

「やるのは怠いよね」

「あー片付けとかね、気ぃ使っちゃうし笑」

「わかるわかる」

「パーっと見て「たまや〜」って言って屋台で遊んで現地に捨てて身軽に帰りたいよね笑」

「手ぶらで帰るのが理想」

そういうところも好きですよ