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私の「私」
というものが私はどういうものか知っている、
他人の「私」から気に入ったものをペタペタとコラージュ、もしくはモンタージュ(どちらも同じような意味なのかも)したものを私は「私」の正体だと知っている、だから一番好きな本は誰にも教えないしオススメもしない映画だって、果てはツイッターユーザーまでも、バレて正体を糾弾される事が恐ろしいからだ
まぁ、もちろんそんなでしゃばりは存在しないと分かってるけれど私は自意識過剰な事をよく分かっているから気にせずにはいられない
これはずっと言っている事でもある
ただ、ここまで繰り返し言うとそれは自分に言い聞かせているようにも感じてくる
あらゆる構成要素を削ぎ落としたところに現れる私が私はどんなに惨めで矮小な存在なのかは知っているのに
なかったかのように
知らなかったように
「もしかして削ぎ落とした先にある自我はとっても美しい宝石のような私なのかもしれない」
ウットリと想像する夢見がちな少女という画がありありと見えるようで苦々しい顔になってしまう。
そんなはずはないだろうと分かってはいるのに
自分にそんな期待をしてしまう
増長した自意識を何度でも踏み潰されてきたのに何度でも期待してしまう
私はかくあるべき、
雑踏に紛れる風景である事を強く自覚し
理解し
期待するべからず(自分にも他人にも)
そうすれば今よりずっと生きやすくなるんじゃないか、朗らかな交友が生まれるんじゃないか
でも私は知っているここに書いた事までもが、
一切の自我がない事を
一切の自立性を持たない事を
だから、